2011年11月8日火曜日

第7回マンスリーダンスセッションの感想

最近、本当に久しぶりの人と、会ったり、一緒に仕事する機会が多くあり、楽しい。
黒子さんとも久しぶりに一緒に踊り、約10年前のPHANTOMの曲も踊ったりしてみた。
作品を作っている時の煮詰まった時を、少し離れて、見えてくるものもあった。
私の踊りも黒子さんに触発されて、少し今までと違う部分があったように思う。

黒子さんが最近の自分の踊りの志向を言っていた事が興味深い。
「身体が一体として動くのではなく、例えば、手は手の、足は足の、口は口の、それぞれが、別の意志を持つように動いてみる。すると、それは内側がとても気持ち悪くなるのだけれど、その気持ち悪さがいい、思考が空っぽになるような気がする」
私は、とても解るような気がするし、黒子さんらしいと思う。そして、現代を生きる人が持っている身体の衝動のようにも思う。
例えば、自分の身体を一つの巨大都市のようにイメージしてみる。そして、都市のざわめきを聞くように、身体のざわめきを聞き、それを開放するように立ってみる。
すると、「私の身体」という統一感が崩れて、様々な情動、記憶、知覚が現れては、消え、ある種壮大な景色のようなものが感じられる。
私は、土方巽氏の「舞踏とは、命がけで突っ立った死体である」という、宣言は、このような感覚をつきつめて、でてきたものに思う。
これは、端的に言うと、死と物質への衝動だと思う。
勿論、自殺願望などではない。そうではなくて、普通私たちは死を私達の生の最後、今の私に無関係なものと感じているけれど、この身体のさらに奥、裏側に、まさに今死があり、それを感じたい、それと結びつきたいという衝動があるという事。生を裏打ちしているものがまさに死であるということ。身体を超えた身体、とでもいうものでしょうか。
物質というのも、いわゆる対象としての物質ではない。例えば、部屋の中で雨の音を聞いているとしよう。普通、そこで私たちは、雨でいやだなーとか、雨に対する様々な印象が現れる。しかし、そのような印象を離れ、自分と部屋、さらには建物、大地が一緒にこの雨を感じるようにイメージしてみると、思考が空っぽになっていくのが感じられる。物質というのは、この無差別性の事を言う。

このように、死と物質に接近していくダンス。これは、私にとっても、大切なテーマであり、大事な感覚だ。
しかしながら、舞踏にしても、現代舞踊にしても、少し無意識的に、そこに傾きすぎているのでは?というのが、実は、私の率直な思いだ。
この死と物質への衝動、景色に裏打ちされながらも、一挙に生の息吹が感じられるもの、様々な命を形成するエネルギーを感じ、感じさせるものが必要に思う。
それが、今求められてる気がするし、私の今求めているダンスだと思う。

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